高根沢町

第1224回 広林寺にあった江戸時代の石碑 の巻

涼しくなってきた?

9月に入り、なんだか秋の気配?

日が暮れるのも早くなり、
朝夕が涼しくなってきましたね。
昨日は亡くなった祖父の命日だったので、
父とお寺にお墓参りに行ってきました。
伏久にある広林寺さん。


 
境内に六地蔵尊さまを発見。
あまり気にしてこなかったけど、

境内にはなかなかに古い
石仏や石碑があるなぁと再発見。

 
とちぎの文化財応援団員になったから、
以前より気になるようになったのかも?
(“応援団員”というと、
どうしても学ランを着た応援団を思い描いちゃうなんだけどな・・)
こちらは二十三夜塔。
江戸時代頃に全国的に流行した民間信仰らしい。


 
横には「文化三年」と書かれていました。

家で調べてみたら、「文化三年」は1806年で江戸時代。
時は、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の時代に
建てられたものでした。
古い!
ちなみに、この文化三年のトピックスは
 江戸三大大火の一つ「文化の大火」があった年。
死者1200人以上が出た大火事が東京であったそうだ。
いつの時代も、いろいろ天変地異はありますね〜。
高根沢町史によると、
広林寺は寛文年間(1661~1673)に
喜連川慈光寺の末寺として開山したお寺で、
開山は元禄三年(1690)ともいわれているそう。
「高根沢町史」には、広林寺のまつわる
こんなエピソードも書いてありました。
昭和の太平洋戦争の時代の話。
戦局が不利になった昭和一九年(一九四四)六月三〇日、
政府は国民学校三年生以上の学童疎開を決定した。
(中略)
高根沢町域内には熟田村に西桜国民学校、
北高根沢村に愛宕国民学校が疎開した。
(中略)
熟田村では狭間田の小野家に女子約二〇名、
伏久の広林寺に約二五名の男子が疎開した。
学童たちは常に望郷の念にかられていた。
伏久に疎開した男の子は、当初
「鉄道線路をみると、この線路を歩いて行くと家に帰れるかなあ」と、
烏山線を深い思いをこめて眺めていたという。
・・せつない・・
烏山線の線路を見て、
東京の故郷に思いを馳せるせつなさ・・(泣)。
ちなみに「熟田(にいた)村」というのは、
現在のさくら市と高根沢町にまたがってあった村らしい。
高根沢町にも、東京からの学童疎開を受け入れた
歴史があったのが今回の新発見でした。
○広林寺
栃木県塩谷郡高根沢町大字伏久405

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