【今までの宇都宮の七水シリーズ
→序 (1)(2)(3)(4)(5)】
宇都宮に江戸時代から
伝わるという「七水」
「亀井の水」「明神の井」
「天女水」「滝の井」「東石町の井」ときて、
のこる七水はあと2つ!
聞いてみようじゃありませんか。
「宇都宮城の大手門てどこだったんですか~?」
こちらには宇都宮城下もジオラマで再現されておりました。
そして、大手門を発見!
「現在のシンボルロードに碑が残ってるよ」とのこと。
教えていただきありがとうございました、おじさん!!
ついでに七水のことも聞いてみたのですが、
それについては「知らないな~」とのことでした。
逆に「全部分かったら教えてね」と言われちゃったので、
この報告はいつかしないと(^^ゞ
ものしり館の向かいにある「まちあるき情報館」には、
↑大きな復元図もありました。
宇都宮城趾と現在の地図が重なっているので、
何がどこにあるのか分かりやすい~。これは助かる!
どれどれ・・
シンボルロードとオリオン通りの交差点の手前あたりか。
よし、当たりをつけて行ってみよう。
栃木県庁と宇都宮市役所を結ぶ、シンボルロード。
こんなところに碑なんてあったっけな~と、
うろうろしていると・・・
あったーーー!!\(^o^)/
大手門跡!
ちょうど、ほっともっとの前あたりです。
案内板には、大手門のことが。
かつて大手門は明神馬場の御橋の南西にありましたが、
元和6年(1620)、本田正純が城下町の整備を行ったときに
古い堀を埋め、この付近に大手門を移しました。
むむ、「池の井」の記述がないではないか。(-“-;A
ということで、再考察。φ( ̄ー ̄ )・・
すると、「宇都宮郷土史(再編復刻版)」(徳田浩淳・著)には
こんな記述が。
池の井
江野町大手口にあった。井戸の傍らに地蔵尊があったが、
本田上野介(←正純)の時代に、桂林寺に移された。
とのこと。
2つの説明から推測するにですよ・・σ( ̄、 ̄=)・・
池の井は、大手門を作る際に埋めた。
┐( ̄ヘ ̄)┌
うん、間違いない。
もう、江戸時代(1620年頃)ぐらいには
すでになくなっていたんだと思います。
そりゃあ、現代に残ってなくて当然だー。
宇都宮の旧跡資料によりますと
「現在は残っていません」とのことなので、
この線が濃厚かと思われます。
ということで、「東石町の井」につづき、
「池の井」も残念ながら姿が発見できませんでした。
とりあえず、この辺にあった
ということを胸のすみっこに刻んでおきましょう。
そうそう、もうひとつ
“地蔵尊を移した”という手がかりだけを元に
「桂林寺」というお寺にも行ってみました。
清住1丁目にありました「桂林寺」
ぬお!ここには、蒲生君平先生のお墓もあるんですね。
蒲生君平とは・・・
宇都宮市生まれの江戸時代後期の儒学者で、
「寛政の三奇人」の一人に数えられています。
古墳を研究していた人で、
全国の山稜探訪を行い、「山稜志」という出版しました。
「前方後円墳」という名称はこの人が命名したもの。
ということで蒲生君平先生は、
尊敬すべき探訪センパイなのです。ヽ((◎д◎ ))ゝ
本堂の手前にあったいくつかのお地蔵様。
こちらのどれかが昔、池の井の近くにいらっしゃったんでしょうか?
説明などは特に書かれていないので、
分かりませんでした。
蒲生君平先生のお墓を見て帰りました。
後日お寺の方にお話を聞いてみたところ、
やはり池の井の隣にあったのはこれ!というのは
詳しく伝わってはいないようでした。(残念)
しかし、こんな情報も教えて頂けました。
こちらのお寺の山号は「松峰山桂林寺」といい、
昔は松が峰のほうにあったとか。
松が峰といったら・・大手門跡から近いじゃないですか!
だから桂林寺に地蔵尊を移した、
というのも納得がいきました。(近かったからですね)
その後、江戸時代と戊辰戦争の時、
二度の大火に遭っているので
もしかしたら、もう現存していないかも・・とのこと。
井戸はもう残っていませんが、
ここにいたお地蔵さんが、
昔の風景を唯一知っている証人なのかもしれませんね・・
栃木県宇都宮市江野町(シンボルロード沿い)